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 (発行日順)
      「陶町」の歴史について紹介するコーナー。
      陶公民館職員K氏による陶町歴史エッセイです。文章左の画像をクリックすると記事詳細を確認できます。

                         ※第9号で羽柴与左衛門の改名前の名前を加藤景慶と記しましたが、正しくは加藤景度の誤りです。お詫びして訂正いたします。

第25号 (2017年4月) 最終回 
第25号は「中馬街道について」です。
長野県の“飯田”と愛知県の“名古屋”を繋いだ「『中馬街道』。
陶町はその通過点としてあります。
このエッセイでも紹介しました、陶町の陶磁器産業の流通経路として、また、人々の生活道路として大変重宝された街道です。
現在は、区画整備や道路整備のため変わってしまいましたが、町内のところどころに残された石仏や形跡があります。
陶器で作成した街道を案内した看板を、街づくり・文化教育部会のメンバーで設置する作業を行っています。
平成29年度には町内の中馬街道の看板設置が完了する予定とのことです。
第24号 (2017年3月)
第24号は「陶町と災害」です。
陶町を襲った大きな災害は・・・、
「濃尾地震(1891年)」 「昭和東南海地震(1944年)」 「三河地震(1945年)」
「南海道地震(1946年)」 の地震災害。
「伊勢湾台風(1959年)」 「昭和47年集中豪雨(1972年)」の風水害があります。

昭和47年7月に起きた集中豪雨については、覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。
陶町の中でも、水上・大川は甚大な被害を受け、大川では5名の尊い命が奪われました。
詳しい内容は、第24号をぜひご覧ください。
第23号 (2017年2月)
第23号は「日本と戦争」です。
明治6年(1873年)、徴兵令が発布され、翌々年の明治8年(1875年)には最初の徴兵が行われ、水上村から入営した人もいました。
1894年に日清戦争が勃発、その後1904年には日露戦争が起き、陶村からも戦地に赴く人が増えます。しかし、日本は勝利を治めたものの、多くの人が戦地で命を落とすこととなりました。欧米列強の仲間入りをし、その後、日中戦争・太平洋戦争まで軍事大国の道を進みます。
第22号 (2017年1月)
第22号は「続 窯業の発展」です。
明治から大正、戦前にかけての陶窯業は、猿爪地区のみでも25件近くありました。しかしながら、小規模な工場が多く資本力も大きなものではなく、不況時には廃業をせざる工場も少なくありませんでした。
ただ、瑞浪市内でも陶町以外、稲津町や上山田、益見にも開業している工場はありましたが、多くは継続していません。
陶町にも工場を継続させていくため、ピンチは訪れたと思いますが、それでも廃業することなく発展していった工場も多くありました。
なぜこのころの陶地区は窯業が衰退しなかったのか?どのように危機を乗り越えたのか?
第21号 (2016年12月)
第21号は「窯業の発展」です。
今は普通にある白生地の陶器ですが、研究と苦労の末に生まれた産物です。
明治初期、遠州から来た中村弥九郎は猿爪村で陶工となり、展覧会で目にしたフランス焼きの白さに感動しました。
これを機に弥九郎は研究を重ね、太白(たいはく)素地の研究にいそしみ、白磁の製造に成功。輸出磁器によって陶地区の窯業発展に貢献をしました。
こちらは、陶町猿爪にある桜ヶ丘公園に記念碑が建立されています。
また、同様に陶の窯業発展に貢献したとされる、曽根庄兵衛の紀功碑も建立されており、毎年8月13日には陶祖祭で神事が執り行われます。
陶で白磁が作られるきっかけ、陶磁器産業に貢献した人々とは…?
第20号 (2016年11月)
第20号は「続 学校教育」です。
昭和初期まで陶には尋常小学校が猿爪と水川にありました。しかし、この小学校が実は村の財政を圧迫していました。
その後、統合となり猿爪を本校とし水川を分校としました。今でも「水川分校」と言われる方がいらっしゃるのは、そのころの名残ですね。

学校行事のうちの一つに楽しみにしている修学旅行があります。
明治32年の陶村高等小学校にも修学旅行があり、なんと7泊8日の大旅行でした。最も交通機関が発達していない時代ですから、大半は徒歩になります。
さぞかし、大きな行事・イベントだったことでしょう。
学校統合の経緯、明治時代の修学旅行コースについては、左記画像をクリックしてください。
第19号 (2016年10月)
第19号は「学校教育」です。
明治5年に新しい学制が発布され、各地に新しい学校が設置されました。
陶町内にも「猿爪小学校」と「水川学校」ができました。
猿爪小学校は猿爪尋常小学校、猿爪尋常高等小学校と改称されて猿爪小学校となり、現在の猿爪・陶コミュニティーセンター近辺に建築されていました。
「水川学校」は水川保育園のあった場所に建てれていました。こちらは、ご存 知の方や、学び舎を覚えていらっしゃる方も多いと思います。この校舎の屋根には当時としては大変珍しかった鬼瓦があり地域の方の自慢だったそうです。
第18号 (2016年9月)
第18号は「道路以外のインフラ整備」です。
今号では、陶の電気事業と市場平の灌漑用水について紹介します。
陶町は大正5年(1916年)、瑞浪市内で一番早く役場に電燈が灯りました。 (正直、驚きです…)  その後、小里川 川折発電所が作られ、この辺りの産業の発展・社会の近代化に貢献しました。今も、その姿は県道20号線から見ることができます。
水上市場平の灌漑用水は、水上地区の稲作には欠かせない用水路です。
直線であれば1kmほどの距離ですが、工夫をこらして6kmにも及んだといいます。この用水路は、水上「樋の下」の地名になるほどでした。今はこの『樋』は取り除かれてありませんが、記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。
第17号 (2016年8月)
第17号は「交通手段の発展」です。
明治・大正と時代が移り変わる中、当然のように交通手段も徐々に発展していきました。
明治の時代には明智-瑞浪の間は乗合馬車が行き来していました。この乗合馬車、6人乗りでラッパを吹きながらのとってものんびりした運行でした。
大正の時代になると「明知自動車株式会社」が設立され、その後、昭和15年に東濃鉄道株式会社と合併して今に至ります。
また、「恵那索道」という、現在でいうロープウェイのようなもので輸送用機器として使われていました。索道に関する会社が設立され、日本でも有数の長さを誇る索道が陶をとおっていたんですね。
第16号 (2016年7月)
第16号は「続・交通網の整備」についてです。“もしかしたら、中央線が陶を通った!?”
“瑞浪駅と明知を結ぶ電気鉄道が計画されていた!?”なんてこと、みなさん想像できますか!?
実はあったんです。
明治になるとあちらこちらで鉄道網が発達していきます。当然長野-岐阜-愛知を結ぶ鉄道の計画があがるわけです。東濃地域には、中馬街道筋と下街道筋があり、そのどちらに鉄道を通すかで誘致合戦が行われました。
しかし、瀬戸から名古屋に抜ける中馬街道筋は瀬戸の協力むなしく誘致合戦に負けてしまいました。
なぜなら・・・・詳しくは、左記画像クリックしてご覧ください。
瑞浪駅と明知駅を結ぶはずだった電気鉄道の秘密も明らかに!!
第15号 (2016年6月)
第15号は「交通網の整備」についてです。
陶町にゆかりのある明治時代の道路には、「岩村新道」「中馬街道」「三濃街道」があります。
明治41年には大川~川折の七曲り道路が完成したことにより、それまでの「小滝道」は使われなくなりました。
また鉄道の整備として、1902年には中央線「多治見~中津川」間が開通し瑞浪は名古屋まで鉄道で結ばれました。
ここから中馬街道の利用の変化が謙虚になっていきます。
第14号 (2016年5月)
第14号は「続 明治の新行政」についてです。
新自治制度により、『陶』が誕生します。
猿爪・水上・大川は恵那郡の第三小区に入りました。所轄領からしますと、水上と大川は小里領からの天領に移行したことから、本来なら土岐郡が妥当ではあります。地理的要件の理由からか、はたまた猿爪の陶磁器産業との結びつきがあったことからか、恵那郡となりました。
その後、猿爪・水上・大川が合併により『陶村』となりました。
今号ではその他に明治初期の陶の人口推移や、明智騒動などに関係した人物の紹介もしています。
第13号 (2016年4月)
第13号は「明治の新行政」についてです。
明治に入ると近代化重視による名字政策が転換され、平民苗字許可令により国民はみな公的に名字を持つことになりました。ちなみに2月13日は「名字の日」です。
猿爪窯の近くに住んでいるから陶祖の苗字「加藤」を拝領しよう、というような感じでこの頃から苗字をつけるようになりました。
また、しばらくすると租税制度改革として地租改正を行い、物納から金納などに変化しました。
大川地区の“八剣神社”に関する話は、この地租改正に絡んだ有名なお話です。詳しくは第13号をご覧ください。。
第12号 (2016年3月)
第12号は「陶町 産業の夜明け」 です。
今回は陶の産業と“陶祖 曽根庄兵衛”氏との関連についてを説きます。
江戸時代初期以降、現在の陶町には農業しかなく村民はみな決して裕福な暮らしではありませんでした。
その後、徳川将軍9代・家重の時代、現在の妻木から陶に移り住んだ曽根庄兵衛。若くして父・兄を亡くした庄平衛は昼夜百姓に励み、弱冠20歳で組頭になります。その後、陶に窯焼きを浸透させるべく東奔西走します。
窯業を営むために苦難を乗り越え陶町に発展をもたらした人物。
陶の歴史を知るためにも、是非とも今月号、ご一読ください。
詳しくは12号をご覧ください。
第11号 (2016年2月)
第11号は木喰上人の秘密をひも解きます。
「木喰上人」。まずご存じない方は読み方が難しいと思います。
“もくじきしょうにん”と読むのですが、まず「木喰」とはなんですか?ということになるのではないでしょうか。
木喰とは、簡単に言うと木の実や草のみを食べて過ごすことです。このような修行をした人が「木喰上人」と呼ばれています。中でも「木喰応其」という方が有名です。
陶町水上の不動庵裏の墓地中央に高さ170cmの立派な石像があります。これには「木喰実元」の文字が刻印されてあり、いわゆる木喰上人像です。
興味のある方は、一度訪れてみてください。
詳しくは11号ご覧ください。
第10号 (2016年1月)
江戸時代の庶民の生活について、みなさん想像ができますか?
徳川幕府が開かれたほどなき後の1623年、猿爪は旗本明智遠山領、水上・大川は小里領でしたが小里氏の断絶により幕府直轄領となります。
このころの陶地区の産業はほぼ農業のみでした。村民は質素倹約のため遊びや娯楽を控えて年貢を納めなければならない厳しい生活を送っていました。
そんな中、頼れるのは神仏のみ。疫病や無事に子供が生まれることも神頼みでした。この神頼みとなったのが庚申講や念仏講です。
今でも耳にする「無尽(むじん)」はこのころの名残といえます。
詳しくは10号をご覧ください。
第9号 (2015年12月)
第9号は陶窯業の発祥についてです。
瑞浪市商工会議所の資料から、陶地区の窯業発展は1474年に横浜から移住してきた加藤左衛門景信が大川窯を築いたことが原点にあるとのことです。
その後、景信から4代目にあたる景慶は名を“羽柴与左衛門”と改め、この地で活躍しました。これ以降、水上には瀬戸から来た人物が“水上向窯”を創業し、土岐の久尻から来た人物が猿爪窯釜ケ洞に築窯、また久々利から来た人物が“田尻窯”を開きました。
しかし、大川窯の加藤景慶は姓を“羽柴”に改めたのでしょうか・・・。
第8号 (2015年11月)
第8号は続・戦国時代の陶の統治者に関するお話です。
猿爪の統治者・遠山経景は、明智遠山氏の庇護を受け三河道の警護の職に就きました。その後明知城をめぐる戦いを経て猿爪と吉良見を賜り統治者になりました。

その頃の陶の石高はお隣の山岡町と比較すると小さな小さな村でした。
“飯高観音”で知られる萬勝寺近郊が恵南地方の農業の中心だったのでしょうか…。
第7号 (2015年10月)
第7号は戦国時代の陶の統治者に関するお話です。
猿爪と水上・大川は統治領が異なりました。その頃の林昌寺(陶町大川)の開祖「東陽英朝」に関する内容と、水上・大川の統治者の詳細が今回の内容です。
陶の昔話に登場する「武士の墓」の通称“清源さん”。この人は小里家の家臣で小木曽某といいました。この人が水上・大川の統治者でした。
本能寺の変を経て、様々な戦いが繰り広げられました。その時の戦いの詳細、そして、それにまつわる戦いで亡くなった武士を葬ったのが大川にある十三塚となつています。
第6号 (2015年9月)
第6号は戦国時代に突入です。
1467年応仁の乱を皮切りに戦国乱世となります。
このころは、猿爪と水上・大川が領主が異なったため、今のように一つの町内の地区ではありませんでした。
猿爪は明智遠山領として、水上・大川は小里領として多くの方が傷つけあいました。今ではとても考えられないことです。なぜこのような戦いになってしまったのか、今回の第6号で紹介しています。
第5号 (2015年8月)
第5号は中世・武士の時代です。。
時は鎌倉時代、貴族にかわり武士が勢力を持ち始めました。
その頃岩村近郊を治めたのが加藤景廉。その息子が遠山姓を名乗り、初代地頭となり岩村を本家として戦国の世まで続きます。しかしながら後に本家は断絶し、分家の一つであった明智遠山氏が生き残ります。その領地となっていたのが陶町だという説があります。
東濃地方の一大勢力だった土岐氏との関わり、室町時代に開かれた「大川窯」など、時代の波に揉まれながらも変化し続けた私たちの故郷陶町を知ってみましょう。
第4号 (2015年7月)
第4号は古代の陶町です。
農耕技術が大陸から伝わった弥生時代、恵那から山岡に、そして陶にも農耕技術は伝わりました。
奈良・平安時代になると東濃地方は恵奈六郷と土岐六郷の二つの郡がありました。
陶は恵奈郡の淡気郷(たむけごう)に属します。
この「淡気郷」は陶中学校の校歌に歌われています。
第2号・第3号 (2015年6月)
今回は地名の由来です。『陶』の由来から『猿爪』『水上』『大川』へと続きます(2回と3回の合併号)。
『陶』という地名は誰が名付けたのか、普通では読めない『猿爪(ましづめ)』はなぜ“ましづめ”なのか?さて、皆さん、ご存じですか?
また、インターネットで『陶小学校』と検索すると実は日本に4校あることご存じですか?
これに関しての記事もありますので是非ご覧ください。
第1号 (2015年3月)
私たちの故郷「陶」の歴史についてのエッセイが始まりました。
初回は「人の足跡・・・縄文時代」です。
舞台は陶町猿爪地区梨ケ根の“丁奈平”。
ここで昭和35年、中学生によって縄文時代の遺物が発見されました。縄文時代からこの地に人が住んでいたということ?はてさて、陶町にどんな歴史があるのでしょうか。
詳しくは左の画像をクリックしてみてください。